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医師転職サイトドクターズアヴェニューHOME > エッセイ > 病室の子供
2007年08月17日
子供のころのピカソだったかレンブラントだったか、乱れたベッドに伏せる瀕死の子供を描いた絵があったと思う。狭い部屋の淀んだ空気のなか、生気のない病んだ子供の目が痛々しくこちらに向けられている。周りには大人が取り囲んでいて、そこに殴られて横たわっているような子供を不安げに見守っている。力なくこちらに目をやる小さい子供は記憶の中の絵なのか、小さい頃の自分なのか、どちらが本当なのかわからない。
7つのとき、北鎌倉の山に住んでいた。駅からバスで1時間ほどかかる。通学路の傍らには防空壕の跡があり、呑み込まれそうな空洞を覗かせる。住宅地を過ぎて山に入ると、道の途中に切り通し(鎌倉時代に関東から通行するために岩を切り作った道)が現れる。京都は町に歴史があるけれども、鎌倉は山に歴史が残っている。
鎌倉に住むようになって間もなく、熱が出た。42度まである体温計の水銀が限界まで伸びている。唇は膨れて舌が苺のようだ。何より左顎のリンパ節が魚の浮きのように膨れて動かせない。病院へ担ぎ込まれてそのまま入院となった。小児リウマチか膠原病か、診断は二転三転したが結局川崎病で落ち着いた。
入院した近くの病院には小児科がなく、主治医となった内科の先生は途方に暮れた。小さな病院ではあまり出会わない症例だった上に、相手が子供なので仕方がない。先生は悩んだ末に外科へ相談し、顎に膨らんだリンパを切開して調べてみようという話になった。女の子の首に傷がつくので母は悲しんだが、死んでしまうよりいいと私を説得した。けれどただでさえ子供はお医者さんが恐い。メスで切られると思っただけで動機がした。ベッドでかたくなっていると、優しそうなまだ若い外科の先生が入ってきた。看護師さんが先生が来たわけを私に説明しているのも聞かず、首を切るの?きらないでね。と先生にお願いした。先生は静かにうなづき、私の左顎を調べ、これは切らなくていいよ。内科の先生にお話するからね。と言って頭を撫で、母に何か話して出て行った。
経過は思わしくなかった。床ずれの範囲が広がり、足は物干し竿より細く歩けない。両親は、私と同じ病室に入院する女性に、この子は死ぬけど元気出しなさいと励まされて転院を決意したらしい。小児病棟のある横浜の大きな病院へ、入院先の好意もあり救急車で搬送してくれた。
死にかけの子供をこの世に引きずり戻したのは小児病棟のベテラン看護婦長だった。転院したその日にお風呂に入れてザブザブ洗い(実際はもっと穏やかだったろうが久しぶりに体にかかる水は怖かった)、お風呂から上がると歩行器を使って無理やり歩かせ、入院の手続きを終えた両親が病室に入る頃には私の顔に人間味が戻っていたそうだ。スパルタ婦長が鬼に思えたが、彼女は私を見た瞬間、このままだと1週間も経たずに死んでしまうと判断したらしい。
荒療治は功を奏して、熱も首の腫れも治まり、3時のおやつが楽しみだった。同い年くらいの子達と過ごすうち友達もできたが、顔見知りの子たちが何人も無言で病院を出るのを見送ることも多かった。3ヶ月たって自宅での療養が許され、私は歩いて帰宅した。
お正月の松の内に入院し、庭の柿の木の実が色づく頃は自宅のベッドで小学校のチャイムを聞いていた。時々同級生がお見舞いに来ても、授業や教室のうわさ話を聞いても、違う世界の話のようで気まずかった。私を置いて噂話に興じる女の子達を眺めながら、静かにいなくなった病室の子供たちが懐かしく、ぼんやりベッドから山を眺めていた。