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インドとわたし 3. バックパッカー入門 旅路の出会い

2007年01月08日

期間:2003年12月10日〜2004年3月9日
滞在場所:【インド】ハンピ、ゴア、プリー、コルカタ、ダージリン、ヴァラナシ
【ネパール】ヒレ、カトマンドゥ、ポカラ

旅路の出会い

ウーティを後にした私は、ひとり旅にも
そろそろ飽きて、久々に旅行者がたくさんいそうな場所へ向かってみることにした。
 もともと、日本人やヨーロピアンの観光客でごった返した軽薄な観光地は好きである。旅行者というのは気楽な身分なので嫌な人とはしゃべらなければいいし、気のあう人と出会う機会も結構あるのだ。
 ゴアへまっすぐ向かいたかったのだが、いかんせんインドは広く、ローカルバスでの移動には制限がかかる。私はとりあえずハンピへむかうことにした。
ハンピ

ハンピには何もないよ、と友達から聞かされていた。ただただのんびりしているという。ハンピは、長い間忘れられていた遺跡群が近年見直され、またゴアが観光化されすぎたことを嫌ったヒッピーやバックパッカー達が流れてきたことから、最近人気の観光地である。
ウーティを最後にタミル・ナードゥ州を後にして、カルナータカ州へ入った。ローカルバスを24時間以上乗り継ぎ、ハンピまで一気に強行突破した。
南にいたときとは違って、いきなりハンピ行きのバスで複数の日本人と韓国人旅行者に遭遇。この感じ、久々だなー、と思う。
ハンピに着いて、バスからの眺めが一変した。岩なのだ。手塚治虫の『火の鳥』にでてくる未来の地球のような、もしくは宇宙のとある星のような、ゴツゴツした黒い岩だらけの世界。不自然につみかさなった巨大な岩の間に人々が生活しており、そこに観光客が集まってゲストハウスや土産物屋が密集している。
ハンピ行きのバスでは、京都からひとり旅をしている同年代の女の子と出会った。彼女の肌の黒さから、そうとう旅行歴が長いことが知れる。写真をとりながらアジアを旅している女の子だった。彼女とは、この張りぼてのような風景についての違和感を共有し、なんとなく、おなじゲストハウスの隣同士に投宿することになった。
ハンピでは、彼女と毎日散歩して過ごした。岩だらけの丘に登ると、とつぜん視界が開けてバナナ畑が現れた。まるで、南国を夢見ながら植物園に通って絵を描いたルソーの絵画のような非現実的な世界が広がり、いくら眺めても飽きなかった。ハンピには川が流れており、お椀のようなボートで行き来することになっている。観光ずれしたボートこぎはなかなか悪賢く、荷物が多い、日が暮れそうだ、などなどなにかと理由をつけては追加料金を請求してきた。そんな日常も楽しかった。
ハンピには、ゴアからパーティー目当ての日本人やヨーロピアン、イスラエル人がぽつぽつと迷い込んできた。彼らは、その奇抜な風貌から人目でゴアから流れてきた人々だと判る。そのなかの数人に「ハンピでパーティーはないのか?」と聞かれ、「知らない」と答える。ハンピでは、数年前まで野外のレイヴパーティーが行われていたらしいが、最近ではすっかり落ち着いている様子だ。
ニューイヤーパーティーのうわさを聞きつけ、ゴアからハンピに移動してきて、何もなくてがっかりしていた一組の日本人カップルと、丘の上から静かに初日の出をみた。不思議なもので、新年を迎えて日の出の見える丘に自然に集まったのは、日本人と韓国人のみだった。ヨーロピアンは夕日を見たがるが、日の出には起きてこない。われわれ東アジア勢は、初日の出に対する信仰を維持しているのだと感じた。
クリスマスもニューイヤーも過ぎて、私はゴアへ行く理由を半ば失っていた。
しかし、初日の出を一緒に見たゴア滞在中の日本人カップルに「ゴアで待ってるね」と告げられたことをきっかけに長居したハンピを離れ、京都の女の子とも別れて、ようやくゴアへ向かったのだった。
ゴア

ゴアには、1月4日に到着した。初日は友人の家に泊まり、翌日からパーティーで有名なアンジュナビーチへ向かった。私をゴアに誘ってくれたカップルとも無事再会した。ゴアには、タミル・ナードゥはもちろん、ハンピとも比べものにならないくらい日本人が溢れていた。もはや、数週間前とは違う国にいるような感覚である。物価もやたらと高い。
夜のパーティーがメインのビーチなので、みんな朝が遅い。朝日がみられる時間に動き出すことが習慣化していた私とは、街時間が異なっていた。ビーチに朝の散歩に出かけても、なんとなく寂しい。出稼ぎのネパール人やカシミール人が、遅めの時間にパラソルの準備を始める程度だ。観光客の相手をして各国の言葉を覚えた彼らに、歩くたびに「ハロー」「コンニチハ」と声をかけられる。私はほとんど無視して浜辺を闊歩した。下手に相手をしないほうがいいことも多いのだ。
1月7日、満月の夜にゴアのビーチでフルムーンパーティーがあった。
私は、話のネタに、ゲストハウスの友人たちと出かけることにした。とはいえ、とくにトランスミュージックが好きでもない私は、適当にふらふら踊ってすぐに海の家に休みに行った。ラッシーが飲みたかったのだが、夜中の海の家にはビールしかなく、仕方なしにビールを頼んだ。
すると、その日の朝に話しかけられて無視したネパール人が、また声をかけてきた。
出稼ぎのネパール人と、ゴアで遊んでいる日本人は、顔立ちは似ていても、普通は服装や雰囲気で識別可能である。ゴアで売っているみやげ物のTシャツを着て、黒髪をヘアバンドでまとめた彼の姿は、ゴアで少しおしゃれをしてみたネパール人というかんじだった。
しかし、私の予想に反して、海の家の彼は日本人だと分かる日本語で馴れ馴れしく話しかけてきた。日本人だったのか、と意外に思っていると、彼は仕事を放棄して、ビールを2本持って隣に座った。旅路では、基本的にみんなフレンドリーだ。日本人同士が出会うと、まず会話するのが普通である。そこで、わたしも彼と話すことにした。彼は、数年前に日本からフランスのパリへ遊びにいき、そこで1年半の間働いていたという。パリから日本へ帰る途中で、ヨーロッパ、中東を旅して、インドに立ち寄っていたところだった。どうりで服装や雰囲気が日本の若者っぽくなかったわけだ。
さて、結論からいうと、不思議に意気投合したわたしと彼は、つきあうことになった。ゴアのパーティーで出会った人とつきあうなんて冗談みたいだが、そんな出会いが案外うまくいくのかもしれない。わたしたちは毎日スクーターでビーチに出かけた。赤茶けた大地とひたすらに青い空、濃厚な緑が眩しく輝いていた。出会いと始まりの高揚感を最適な場所で味わえたことは、とても幸運だったと思う。私たちの原風景は、いつまでも夏休みのゴアだ。
そして大阪へ

しばらくゴアで過ごした私たちは、その後2ヶ月ほど2人でインドを旅した。ゴアを出たのち、再びハンピを経由してインドを横断し東海岸のプリーへ向かった。プリーからカルカッタを経由してダージリンへ行き、寒さに凍え、中国経由で売られている日本から寄付されたと思しきセーターなどを買い込む。ダージリンから、国境を越えてネパールへ向かった。東ネパールのヒレ、マオイストの活動のせいで戒厳令がひかれた寂しい町で2度目の満月をむかえ、バスでカトマンドゥ、ポカラへ移動した。
2月いっぱいをネパールで過ごし、2人はバスで国境をこえてヴァラナシへ戻った。ヴァラナシにしばらく滞在し、タイへいく用のあった彼とは、ヴァラナシで一旦別れる。私はデリー経由で大阪に帰った。
1週間遅れで、彼も大阪にやってきた。
それから2年間、2人は一緒に暮らしている。生活をするうえで、2人の関係は変わるし、それぞれの人間も変化する。今では、ゴアで出会ったあの人と目の前にいる彼が同一人物だとはとても思えないが、わたし自身も随分変わった。人間関係は日々新しく構築されていくもので、毎日が新しい出会いなのだと思う。


 

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