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2008年05月01日
隅田ベーカリーは、墨田区東向島の裏通りにあった。向島周辺は道が入り組んで迷いやすい。観光客や通りすがりの客の来店はほとんど望めないが、地元住民の殆どが熱烈なファンだった。質素な店の外観はどこにでもある地元の老舗だが、一口食べて誰もが驚く。置いてあるのは、コンビニでも見かけるようなメロンパンやコロッケサンド、メンチカツサンドにバターロールなど、全くもって珍しくない。何の期待もなく買うから驚くのだろうが、気負いの無いパンはまっすぐに美味しい。
隅田ベーカリーのスタンダードな商品のなか、時折みかける変わり種は目を引いた。なかでも私が好きだった小豆コルネは、店でも一番の人気だったと思う。チョコやカスタードのコルネに並ぶ小豆クリームのコルネは、餡の渋みが仄かに残ってしつこくなく、周りのパイ生地もクリームの邪魔をしない簡素な塩味だった。朝早い、7時の開店と同時に入ってもまだオーブンの中、少し遅れると売り切れで、棚に一つ残っている小豆コルネを見ただけで飛び上がるほど嬉しかった。
向島周辺(正確には京成「曳舟」から「八広」、東武伊勢崎線「東向島」を中心とする地域)には戦前・戦中の木造の家が多い。下町の生活臭と情緒を濃密に残す稀有な町だが、災害時には致命的な被害が予想されている。都市工学の専門家や建築学の学生と、東京都との共同で災害に備えた街づくりを進めているが、その町並みに惹かれて若い芸術家が移り始め、下町文化を拾おうとする私たちのような社会学の学生まで入りこみ、災害に備えて何かを整然とさせる目論見が、一部に文化的混沌を引き寄せる結果となった。始まったのは学生たちの夜毎の酒盛りと、学者たちの知的冒険、地元との拮抗、和解、また拮抗の輪廻である。恐らく、大学にいるより興味深い勉強だった。しかし、この活気も地域全体を見れば一過性に過ぎない。若い無鉄砲な学生や芸術家の流入が、地元の名店を繋ぐ結果にはなっていない。
古い家が多いということは、風呂場がない家も少なくない。向島の銭湯は今も日常の一部だが、年々減少している。経営者の高齢化もあるが、風呂付の家に建て替えても銭湯に通い続けた世代から、マンションの世代へと住民の中心が移っている。マンションは町の文化を受け継がない。個別に区切られた「部屋」は私的な生活の場であって、「家」が持つ社会性から免れている。隅田ベーカリーから遠くないスーパーの中のパン屋は、ケーキのようなデニッシュやブリオッシュが毎日焼かれ、マンションに住む子供や若い女性で賑わっている。小豆コルネの方が美味しいのに、と横眼で見ながら、しかしあの店の場所を思うと、店に行き当らなくても不思議はないのだ。マンションの殆どは、路地中ではなく、明治通りや墨堤通りなど目抜き通りの延長上に建っている。地元に興味がなければ、あまり路地の奥まで入り込むこともないだろう。ひょっとしたら百花園も見ないまま、子供たちは向島を離れてしまうかもしれない。
隅田ベーカリーの閉店の日はいつもと変わらなかった。コロッケサンドはいつも通り美味しく、小豆コルネを買えなかった。